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私の人生の数々のトラウマと、共に生きる

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こんにちばん!ましろつばさです!
今回はちょっと重い内容のエッセイを書いていきたいと思います。
私がなぜこんな性格になったのか?なぜこんなにも生きることに不自由が多いのか?
そんな理由を、長文ですが書いていけたらいいなと思っています。
最後まで読んでいただけたら嬉しいです。

今回のエッセイを読んでわかること。

  • ましろが普通の仕事ができない理由
  • メンタルダウンで記憶のない数年があること
  • 夢だった結婚が、本当に夢でしかなかったこと

こんな感じになります!
では、本文へレッツゴー!(笑)

あわせて読みたい⇨ 生きていくには正しい愛が必要だ

私は一般的な仕事というものがこなせません

はい、最初から刺激的なタイトル。(笑)
そうなんですよ。私、接客業とか事務仕事、果てはコンビニのアルバイトさえできません。
なぜなら、そこで生まれる人間関係の構築ができないからなのです。
つまり、仕事で人と関係を持つのが大の苦手なんです。

今現在している仕事は、下請けの入力事務のようなもので。
人と関わるのはネット上だけでいいので、できるんですよ。
これがリアルになってくると、ストレスMAXになって潰れちゃうわけなんです。

このトラウマ発生は20年前かな?
必要に迫られて、データ打ち込みの派遣の仕事をし始めたころからです。
大手の会社の仕事。なのに、研修は無しの飛び込み就職。
今思うと考えられない状況ですが、世間知らずの私はそれが普通だと思っていました。

ただでさえ人間関係を構築するのが苦手だったのですが、「会社」という組織もわからず。
ただ言われたことをやり、ただ入力をこなしていくので精一杯でした。
派遣の人が多かった業務でもあり、女性がほとんどでしたが、誰とどうやって話せばいいのかもわからず。
精神的に孤立した状態になり、拒食症になりました。

体重も45キロ以下になり、お弁当のデザート入れの大きさの食事も食べられなくなりました。
「少食のましろさん」そう呼ばれていました。

3ヶ月の派遣も終わり、会社からはまだ続けて欲しいと言われました。
一旦は納得…というか了承するしかなくて、受けた私でしたが。
会社にくる。
という行為自体のストレスが半端ないことをやっと自覚し、仕事を辞めました。

辞めたときの状況は覚えてません。
オフィスで泣いたようなイメージが…。
あまりの精神負荷により、そのときの記憶が欠如しているのです。

それからです。
私が働けなくなったのは。

つばさ

あの時は本当につらかった…。今でも摂食障害とは長い付き合いです。

病気を理由に実家で親に甘えながらも狂っていた日々

働けなくなった私は、親を頼りました。
その時は実家に住んでいたので、衣・食・住、全て親に甘えて暮らしていました。
ただ、精神疾患は悪化の一途をたどり、日々の生活さえままならなくなっていきました。

自傷癖で何度も入院したり。
薬の濫用で病院に運ばれたり。
そのころは生活自体が破綻していました。
おかげで23歳から26歳ぐらいの記憶がほぼありません

でも、狂っていたなかでも熱中できるものがあったんです。
それが、インターネット
ちょうどインターネットが盛んになってきた時期で、私もH.Pを作ったり、誰かとチャットで話したり。
ネットに依存することで、日々生きて生きていたようなものでした。

あのころ、私の生活に強く反対したりせず、思う存分ネットを使わせてくれた。
そんな私の生活を見守ってくれた親には、すごく感謝しています。
特に生活面を全面的にバックアップしてくれた母には、頭が上がりません。

血迷った判断でした結婚が、私の運命を変えた


そんな狂った生活を送っていたある時、昔通っていた専門学校の先生から電話がありました。
実に卒業してから5年ぶりの電話!
そういえば、卒業する時「5年後に電話するからな〜」とは言っていたな。
と思い出し、何を血迷ったか「この電話は運命の電話だ!」と信じ込んでしまいました。

それから電話の回数も増えていき、キッカケが何かは覚えていませんが「先生」と付き合うようになりました。
今思い出すと、正式に「告白」もされてなかったように思います。
それなのに2年も付き合った末に、結婚までしてしまいました。
あ、もちろんプロポーズの言葉もありませんでしたよ?泣

狂っていたあのころ、私の人生は「先生」についていけば良くなるんだ!
と、謎の使命感?万能感?を感じでいました。

全ては私の妄想から始まった恋。
愛ではなく、恋。
いや、恋ですらなかったのだと思います。

結婚しても夫の呼び名は「先生」のまま。
名前を呼ぶときは人前に出るときで、名前+さんをつけて呼んでいました。
夫には名前で呼ばれることを拒否されていました。

つばさ

ここからが、間違った人生の始まりでした…。

血反吐を吐きたくなるほど嫌だった義父との同居生活

結婚して2年目のことでした。
夫に言いくるめられて、反対したにもかかわらず、なぜか義父との同居生活が始まりました。

義父は、自分至上主義でした。
同居が始まってからは、料理は義父が作るようになりました。
気を使って私も料理を作ったことがあるんですが、翌朝生ゴミに捨てられていました。
義父は自分が作った料理しか食べたくなかったようでした。

義父の料理を食べるときは、夫が帰ってきてからの夕飯だけでした。
(それ以外は義父を徹底的に避けていましたので…)
あるとき、義父が作った料理が不味かったらしいんです。
そうして私に尋ねてきました。
「この料理まずいか?まずいだろ?」

私はなんといえばいいかわからず、困っていました。
そうして押し問答が続いたあと、ようやく夫が割って入ったのです。
「お父さん、そういうことは聞かないでくださいよ」
夫は私よりも義父を優先する生活を送っていたので、地獄のような日々でした。

それのストレスに耐えられず、同居2ヶ月目にして私は自殺を図りました。
完璧な致死量の薬を飲んで。

ま、今生きているので死ねなかったんですけどね。
発見が早く、救急車で運ばれてICUに3週間いて退院しました。

それから夫や義父が変わったか?というと、何も変わらず。
ただそういう出来事があっただけ。という処理を彼らの中ではされたようです。
生活は一切何も変わりはしませんでした。
事件性の疑いもあって警察が3回も家に訪ねてきたりしたのにね。(苦笑)

夫は、私より義父を大切にする。
それが、昔亡くなった義母との約束だから。

その言葉を夫から直接聞いて、離婚を決意しました。
1年かけて夫に離婚を納得させ、協議もなにもせず、紙切れ一枚出して結婚5年の生活は幕を閉じました。
財産も、生活用品も、一切を夫に残してでも、一刻も早く別れたかったからです。

つばさ

本当にこの5年間の結婚は無駄だったと思う。精神的に病んだだけだった。

あらゆるDVを受けてきた私の今


18歳のころには彼氏からの肉体的DV
27歳で結婚してからは束縛的DV金銭的DV精神的DV
あらゆるDVを受けてきました。
それだけDVを受けて、トラウマを抱えても、私はまだようやく生きています。

ただ、生きていくことに一生懸命です。
生きることが、目標なんです。

1日生きて、無事眠りにつけること。
それが幸せというものだと思っています。
幸い、離婚を機に引っ越しをして、そこで良い精神科に巡り会えたので、今の精神状態は波がありながらも落ちついています。

私は、ここまで生きてきた私を褒めてあげたいと思っています。
よく生きてきた。
そう言いたい。
そんな心の余裕も持てるようになりました。

ちょっとした夢もあります。
いつか私が体験した数々の出来事が、どなたかの支えになるような立場になりたい。
ぼやっとした夢なんですけどね。(笑)

今は、生きてくだけで万々歳。
生きてるだけで大成功。
そうやって自分を鼓舞しつつ、私にできることを増やしていければいいな。
そう思ってます。

つばさ

こんな長文、読んでくださりありがとうございました♡


ABOUT ME
ましろ つばさ
40歳オーバーしてるのにおひとりさまで自由に生きてます。メンタルサバイバーの私が、どうやって生きてきたか、どうやって生きていくかを考えながら記事を書いてます。